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六歌仙とは?どんな和歌を詠んだ人?

 

世界三大珍味(フォアグラ、キャビア、トリュフ)四大スパイス(コショウ、シナモン、ナツメグクローブ)などなど、数字でまとめられた有名なものは、だいたい覚えておきたくなります。

では、六歌仙とは、誰のことかわかりますでしょうか。

六歌仙(読み方:ろっかせん)とは、

在原業平(ありわらのなりひら)
僧正遍昭(そうじょうへんじょう)
喜撰法師(きせんほうし)
大友黒主(おおとものくろぬし)
文屋康秀(ふんやのやすひで)
小野小町(おののこまち)

の6人の高名な歌人(和歌や短歌を詠む人)を指します。


なぜ、

その6人が六歌仙としてまとめられいてるかというと、平安時代に編纂された古今和歌集の序文(仮名序と真名序)に、その6人の歌人の名前が挙がっていたからです。

「この6人が良い和歌をよむ」との評価がされれば、確かに、有名になっていきますよね。

古今和歌集に、“六歌仙”との表記はありませんが、後世の人が、6人まとめて“六歌仙”と、ひとくくりにした称号をつけ、それが現代に伝わっているのです。

では、

古今和歌集で、六歌仙は、それぞれどのように、紹介されているのでしょうか。

【仮名序と真名序について】

和歌の作品を集めた古今和歌集の「はしがき(序文)」として書かれた仮名序(かなじょ)と真名序(まなじょ)。

仮名序は、仮名文で、
真名序は、漢文で書いてありますが、
書いてある中身は、ほぼ同じです。

一部違うところもありますが、六歌仙のそれぞれの名前は、両方掲載されています。

仮名序は、紀貫之が書いたとされ、日本で仮名で本格的に和歌を論じた、初めての歌論として有名です。

この2つの序文では、六歌仙の名前を挙げる前に、
柿本人麿(かきのもとのひとまろ 660~724年)と
山部赤人(やまべのあかひと 736年頃)
の名を挙げて「歌聖」(かせい)と称しこの2人は、別格であるというような説明をしています。

その2人には及ばないが、“歌の何たるかを知る人”として、六歌仙のメンバーが紹介されてます。

 

古今和歌集序文(仮名序)での六歌仙の評価文

古今和歌集序文(仮名序)では、6人の名前を1人ずつ挙げて、一人ひとりに歌についてのコメントを残し、この6人にも、良いところ、悪いところはあるものの、『この6人以外は、歌の本質を知らない』と評価しています。

(原文:この外(ほか)の人人、その名聞こゆる、野べも生ふる葛の這ひひろごり、林に繁き木の葉の如くに多かれど、歌とのみ思ひて、そのさま知らぬなるべし。)

仮名序にどんな評価コメントが残されていたのか、一人ひとり紹介します。

僧正遍照(読み方:そうじょうへんじょう)


評価文: 僧正遍昭は、歌の様は得たれども、誠少なし。例えば、絵に描ける女を見ていたづらに心を動かすがごとし

訳  : 歌の本質は理解していたが、現実味が乏しい。絵に描いた女を見て、いたずらにむなしく心を動かすようなものだ。

※真名序では、『絵の美女が人の心を動かすようなもの』とちょっとニュアンスが分かれる感じの表現になっています。

在原業平(読み方:ありわらのなりひら)


評価文: 在原業平は その心余りて 言葉足らずしぼめる花の色無くて匂い残れるがごとし

訳  : 心はあふれているが、言葉の方が足りない。しおれた花のように、きれいな色はないがまだ香りだけが残っているような感じである。

 

文屋康秀(読み方:ふんやのやすひで)

評価文: 文屋康秀は 言葉はたくみにて そのさま身におはず いはば商人のよき衣着たらむがごとし

訳  : 言葉は巧みであるが、中身がおいついていない。言ってみれば、商人が、ただ不相応な良い服を着ただけのようだ。

喜撰法師(読み方:きせんほうし)

評価文: 宇治山の僧 喜撰は 言葉かすかにして 初め終はり確かならず いはば秋の月を見るに暁の雲にあへるがごとし

訳  : 言葉はかすかで、歌の始めと終わりがはっきりとよくわからない。言わば秋の夜の月を見ている時に、その月が暁(夜明け前)の雲に覆われたしまうかのようだ。

小野小町(読み方:おののこまち)

評価文: 小野小町は いにしへの衣通姫の流なり あはれなるやうにて強からず いはばよき女の悩めるところあるに似たり 強からぬは 女の歌なればなるべし

訳  : いにしえの衣通姫ーそとほりひめーの類の人だ。情趣があるが、気力がない。美人にみえるが病いのある女性のよう。強くないのは、女の歌だからだろう

衣通姫とは、古事記などで伝承される和歌も上手い美女のこと。

大友黒主(読み方:おおとものくろぬし)

評価文: 大友黒主は、そのさまいやし。言わば、薪負える山びとの、花の陰に休めるがごとし
   
訳  : ひなびている。言わば、薪を背負っているあまり知識のない木こりが花の陰で休憩しているようだ。

六歌仙が詠んだ歌

歌の本質を理解している、と仮名序で評価されているわりには、はたから見ると、なんだか辛口コメントの方が多めに見えましたね…。

では、、

そんな六歌仙はそれぞれ、どんな歌を詠んだのでしょうか。

その歌と、仮名序の批評を照らし合わせてみると、なんとなく、言ってることもわかる気がします。

僧正遍昭(816~890年)

百人一首の12番、古今和歌集(雑上872)に掲載

和歌: 天つ風(あまつかぜ)雲の通ひ路(かよいじ)吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ

訳 : 天の風よ。雲の通り道を吹き閉ざしてくれ。乙女の舞い姿を、もうしばらく、地上にとどめておきたい。


「天に吹く風よ!」と、ファンタジー小説が一瞬よぎる呼びかけで始まっています。

これは、「五節の舞」(宮中行事の一環である踊り)を観た若いころの僧正遍照が詠んだ歌です。

天女の姿を模して踊るその姿が美しかったので、僧正遍照も、その世界観に入り込んで読んだことが伝わる歌ですね。

在原業平(825~880年)

百人一首の17番、古今和歌集(秋294)に掲載

和歌:千早(ちはや)ぶる神代(かみよ)もきかず龍田川(たつたがわ)からくれなゐに水くくるとは

訳 :不思議なことが起こっていたという神々の時代のことですら、聞いたことがないことだ。龍田川が紅葉で水を真っ赤にしぼり染めされているとは。

龍田川は、実際に奈良にある紅葉の名所として知られる川ですが、この歌は、実際の風景ではなく、屏風に描かれた川の絵をみて、詠んだ歌です(屏風歌というジャンルです)。

「この屏風を観て、和歌を詠んでください」と、在原業平に話をふったのは、元恋人の高子姫。

龍田川の色を褒めているようで、高子姫のことも美しいと詠んだ歌では、との意見も多いです。

文屋康秀(生没年不詳、平安初期)

百人一首の22番、古今和歌集(秋下249)に掲載

和歌:吹くからに秋の草木(くさき)のしをるれば むべ山風を嵐といふらむ

訳 :秋に山風が吹くと秋の草木がたちまちしおれるので、なるほど山風を嵐(荒らし)というのだろう。

『嵐』という漢字が『山』と『風』の文字で成り立っていることを面白がって詠んだ歌です。「拭くからに」は、「ふくとすぐに」「むべ」は、「なるほど」の意味です。

喜撰法師(生没年不詳、平安初期)

百人一首の8番、古今和歌集(雑下983)に掲載

和歌:わが庵(いほ)は都のたつみしかぞすむ 世をうぢ山と人はいふなり

訳 :私の庵は都の東南にあり、このように心静かに暮らしている。私が世を憂いて宇治山(憂し山)に逃げて引きこもったと世間の人は言っているようだが

喜撰法師は、都を離れて、宇治山に居をかまえました。

「どうしてそんなに離れて暮らすの?世間が辛くなったの?」と遊びに来た人に、聞かれたときにした返事が、この歌です。

「しかぞ」は「このように」の意味。“逃げてびくびく引きこもっている訳じゃないよ”と、穏やかな心持ちを伝えています。

宇治山は、いつしか喜撰山京都府宇治市の喜撰ヶ岳)と呼ばれるようになりました。

小野小町(生没年不詳、平安時代

百人一首の9番 古今和歌集(春下113)に掲載

和歌:花の色はうつりにけりないたづらに わが身世にふるながめせしまに

訳 :桜の花の色はむなしく色あせてしまったなあ。春の長雨が降っていた間に。(私も物思いにふけっているうちに、年をとってしまった)

「ながめ」は、長雨と眺め、「ふる」は、降ると(年を)経るの、二重の意味が込められています。
花の色があせていくのを、自分の体が衰えていくことのように感じたのですね。

大友黒主(生没年不詳、平安時代

古今和歌集(88)に掲載

和歌:春雨のふるは涙か桜花ちるを惜しまぬ人しなければ

訳 :春の雨は(人の、もしくは天の)涙だろうか。桜の花が散るのを惜しまない人などいないのですから。

拾遺和歌集(405)掲載

和歌:咲く花に思ひつくみのあぢきなさ身にいたつきの入るも知らずて

釈 :咲いた花に執着する無意味さよ。体に病(矢尻)が入り込むのも知らないで。

大友黒主の歌は『古今和歌集』に4首、『後撰和歌集』『拾遺和歌集』等に11首和歌が掲載されています。

百人一首に選ばれなかったのは…

さて、

六歌仙が詠んだ代表的な歌を、主に小倉百人一首の中から紹介しましたが、一人だけ、百人一首に選ばれなかった人がいます。

誰かというと、最後に紹介した大友黒主です。

小倉百人一首は、和歌を使った競技かるたで有名ですが、もともとは、平安時代の末期から鎌倉時代の初期にかけて藤原定家歌人1人につき1首で、全部で百首選んだものです。

小倉百人一首は、親類の別荘のふすまに飾るために選んだもので、ふだん、帝の命令によって選ぶ勅撰和歌集を作る時よりも、しがらみなく定家の自由に選ぶことのできた「定家の超おすすめ和歌100首」の雰囲気で選ばれたといった感じでしょうか。
(小倉山のふもとの家で選んだから小倉とつきます)

それで、六歌仙の中で一人選ばれなかったのが、大友黒主でした。

だから、
…というわけではないのですが、このこともあいまってか、大友黒主は、のちの人に一人だけ異質な扱いを受けるようになります。

例えば、

六歌仙容彩(ろっかせんすがたのいろどり)』という、1831(天保2)年に初演があった歌舞伎があるのですが、六歌仙が登場人物として出る中、大友黒主はひとりだけ、天下を狙う敵だったという役回りになってしまうのです。

小野小町も登場する『積恋雪関扉』(つもるこいゆきのせきのと)でも役でした。

名前に、黒という文字がついていたのも敵役にすえられやすかったといわれています。

おわりに

六歌仙のひとり、という名誉ある称号がありながらものちの人にネタにされる六歌仙大友黒主

ご本人にはちょっと申し訳ないですが、キャラが立っていてなんだか、今では逆においしい立場だなあと思います。

 

※この記事は、2020年7月に書きました